20210314

山下残さんの『せきをしてもひとり』をみに猫と窓ガラスへ行く。

『せきをしてもひとり』は、2004年が初演の作品で、「ダンスの戯曲化」をテーマに尾崎放哉の自由律俳句を取り入れたもの。(イベントページより) 

「ダンスの戯曲化」を試みた結果できた戯曲の最初の頁が以下。

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< せき    cough

 ">"は息を吸う、"<"は息を吐く、行為が記されている場合はその行為をする。この10行を1頁として、1頁ずつスクリーンに投影されていき、山下さんはそれを見ずに演じる(踊る)。観客は戯曲をみながら公演をみる、観客も(息を吸う、吐くに関しては実際に、それ以外は想像で)演じることができる状態で公演をみる、という構造。

スクリーンへの戯曲投影もなく、構造の説明もなかったらどう公演をみるだろうか。おそらく「どうでもいいことをしているな」と思いながら45分前後みつづけることになるような気がする。周りのひとがどんなペースで息を吸って吐こうが正直「どうでもいい」。せきをしていたら、親しい人だったら「体調悪いのかな」と想像したり、心配して声をかけるかもしれないが、名前もろくに知らないひとだったら雑音としか受け取らないかもしれない。そもそも空間にひとりだったら、自分のことを気にかけることができるのは自分しかいない。

 

淋しいぞ一人五本のゆびを開いて見る

 

というところで、去年みた映画『はちどり』を思い出した。ヨンジ先生がウニに(セリフはうろ覚えだけど)「つらいときは自分の手をみつめて、1本ずつゆっくり指を動かすの。私は指を動かすことができるって思えるから」というようなことを言っていた。これをすると、周りのひとや自分のことが「どうでもいい」という投げやりな気持ちをゆっくりと和らげることができるような気がする。

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カレーがとても美味しかったけど、写真はない

終演後、山下さんに質問とか、感想を話す時間があって、「つまづくをtripと訳していて感動した」と言ったけれど、あとで調べたら普通にtripはつまづくという意味でつかわれることがわかり、恥ずかしくなった。