20210313
港まちづくり協議会主催の、おおしまたくろうさんの滑琴(かっきん)ワークショップに遊びにいった。
滑琴について↓
【滑琴の演走 | Slide Guitar】Hatoba, Chuo Ward, Kobe City, Hyogo, January 3rd, 2020
この楽器で街の音を奏でるための楽譜を地図上に描こう、というワークショップだった。街を歩いて、滑琴で滑ったらよさそうなところ、叩いたらよさそうなところ、滑琴関係なくいい音がするところがあれば滑琴は休符、ということでそれも描いていく。滑琴が鳴る/鳴らないことで、それ以外の音もただ歩いているときとは違う聞こえ方になる。大通りはさえぎるものが少ないので風が強く、音も大きい。大通りから1本中へ入るだけで、風も、その音も弱まったように感じた。
物理的な面でいうと、大通り以外の歩道は傾斜や段差が思ったよりも多い。舗装の仕方にムラがあり、凹凸があるところも多い。あたりまえといえばあたりまえだけれど、車道の方が圧倒的にスムーズに滑ることができる。ベビーカーや車いすユーザよりも自動車が優先されているようにも感じられた。
滑琴を通す(意識する?)ことで普段意識しない道の凹凸やマンホール、電柱の表面をじっと見てしまう。街にあるものすべてを自分が音を出すためのもの、としてその瞬間は手に入れられているような感覚になる。グラフィティみたいに怒られる可能性はあるけれど、鳴らすのをやめればそれでおしまいになる。でも「鳴らした/聞かせた」ということはまず自分の中にのこるし、街にものこる、はずだと思う。
20210311
東日本大震災から10年が経った。その日のその時間なにをしていたか、はっきりとは覚えていないけれど、高校1年の終わりがけ、テストか保護者面談かなにかで普段より早く家に帰る途中、終点に着く直前くらいだった気がする。電車が止まることもなかった。家に着いたら母がテレビのニュース速報をみていて、状況を知った。
数年後、大学の講義(何の講義かは忘れてしまったけど、たしか教養系の何かだったと思う)で担当の先生が「3.11って何の日?」という質問を学生に投げた。最初にあたった人が「??」という感じの反応で、静かに、かなりショックを受けた。さすがに(?)次にあたった人は震災と答えていた。
ショックを受けた、とはいえ自分も9.11が何年だったか、阪神大震災が何年だったか、前者は東日本の10年前、後者は自分の生まれた年、という基準をもとに思い出している。3.11後に起こった様々な災害、北海道、大阪、熊本の地震や西日本豪雨は何年何月だったか思い出せない。
よくライブに一緒に行っていた友達と「配信ライブみると実際のライブに行きたくなるし、見だしたらきりないし、最近は無事に配信ライブできますように、みたいな念を送るだけで十分じゃないかと思っている」みたいな話を少し前にした。念というか意識というか。そういうものをなくさない、忘れないことで、好きな人たちが健やかに好きなことを続けられるための行動をいざとなったときに起こせるのでは、という気持ち。
けど、じわじわと「自分の生活もあるし、、」みたいな、ある種言い訳をしていたら間に合わなくなってきている感じがする。思いをはせる、ってことも大事だけれど、ポコラヂで話していたみたいに、身体性をともなった形でできることを増やしていきたい。
20210226
1週間5日出勤週末へのカウントダウンが長いようであっという間に終わる。樋口恭介さんがつぶやいてた「なんか知らんが今日は会社というところへ行かないといけないらしい」という気持ちというかモードで機械的に朝支度して会社行って(在宅のときもあるけど、その場合はPC立ち上げて)やれることをやって帰るしかない。たぶんほんとに好きなことを仕事にしても一定期間経つとそういう気持ちになってしまうんだろうな、と考えるとあと3〜40年この気持ちとどうやっていけばいいのかわからん。
帰って梨泰院クラス8話をみた。セロイが復讐のその先の目標をきかれたときの答えがとてもよかった。うろ覚えだけど「自分や自分の仲間が、権力に怯えず、脅かされず、自由に自分の人生を生きられるようになること」と答えていて鳥肌がたった。
20210220
弟が就職で実家を出る(同じ県内だけど)ので、新居を見に行くという理由づけで家族5人で新居近くのはま寿司に行った。1年以上振りの回転寿司。当然?コロナ禍以前みたいに常時回っているわけではなく、席ごとにあるタブレット端末で頼んだものだけが超速で回ってきて止まる。全ての注文を客自身がタブレットでするので、皿を数える必要がない。席の案内もタブレット的なやつ。なので会計のときと、ビール等の超速で回せないものを注文した時だけ店員さんとやりとりする。
タブレットから男性声優の優しい声で発せられる「注文を承りました!」「まもなくご注文の品が到着いたします!」がそこかしこで鳴る中、誰がどう作ったかわからないが美味い寿司を食べた。
誰がどう作ったかわからないのはコロナ禍以前からだけど、すごく久しぶりだからか、回し方が最適化されてすぎているからか、怖くて慣れるまでは少し放心状態だった。今後、回転寿司行きたいって自分からは言わないだろうなと思った。鯖の押し寿司が一番美味かった。
20210213
仕事のストレスが微妙にたまってきていて、ちょっと体重増えてるっていう事実とか(1-2週に1回銭湯で計る)、身体重いなっていう自覚があっても暴食が止められない。この前日の金曜日も野菜のストック買うついでにロールちゃん(ヤマザキ)買ってしまい、23時くらいに1本食いした。
翌日、朝はヨーグルトだけにして、なんかがっつり食べたいなーという欲を満たすためにまぜそば大盛りを頼むも、3分の1くらい食べたとこで少し具合が悪くなる。トイレいってベルト緩めたら完食できたのでよかった。下品な話でごめんなさい。まぜそば食べるたびにもう2度と無理、身体が無理、せめて並にする、って思うけど学習能力がない。
重い身体を引きずって坂を登り豊田市美術館に行く。「わが青春の上杜会(じょうとかい)」をずっと「上社会(じょうしゃかい)」だと思っていて、チケット買うときもそう発音してしまったけど、とくに何も言われなかった。マスクととおらない声のおかげ。字はちゃんと読もう。
上杜会展は、同じ時代で同じようなコミュニティにいても個をもって突き進んでくさまがかっこよかった。企画上仕方ないのかもしれないけど、作者の詳細な来歴が作品の横に貼ってあって、そうなると活字把握、要約能力不足により絵をみてる時間よりも文字追ってる時間が長いんじゃないかと思ってしまう。文字追いながら横目で絵をみてはいるけれど。資料でも配っていたけど、絵の横にある文字を意識しないのは難しい。
会員同士がやりとりしたハガキもいくつか展示してあって、そもそも残ってることに感動した。達筆すぎて内容全部は追えなかったけど、すごい批評しあっていてよかった。
デザインあ展は、所要時間2時間のところを1時間足らずで出てきてしまった。去年の夏の東京都現代美術館「おさなごころをきみに」でもほぼ同じことを思ったけど、科学館化する美術館とかデザイン展ってなんなんやろうか。やっぱりみんな体験というか、何か生み出して記録(写真撮る)したいっていうことなのか。美術館でもライブでもクラブでも、基本的にぼーっとしたい、自分がいるかいないかわからくなるほど没入したい、何も生み出したくない、っていう欲求とか気持ちで行ってるからだと思う。今後は興味本位じゃなく事前情報ちゃんとみて行こうと反省した。
メイン目的の常設展(コレクション展)、「VISION:作っているのは誰?」。ミヤギフトシさんの映像作品『花の名前』すごかった。花の名前をもとに物語が場所、人へ渡っていって、最後はドラァグクイーンがこの曲をリップシンクする。
先週末にみた『花束みたいな恋をした』で有村架純さん演じる絹ちゃんが菅田将暉さん演じる麦くんに「女の子に花の名前教えてもらったら、その花をみるたびにその人のことを思い出しちゃうんだって」と言っていた。
少し前に26歳になった。正直中学以前のことをほとんど覚えてない。思い出したくないことが多いから、都合よく消せてしまっているのか。何歳のときに誰と会って、一緒にいて、何をしたのか、多少つらくても思い出せた方がいいような気がする。そのためにどうすればいいかはわからない。
イヴ・クラインの『IKM(インターナショナル・クライン・ブルー)』
スマホのアップデート
愚痴。
ドラマ「MIU404」が始まる前の数分、「SIMカードの不正利用への最低限の対策として、スマホのアップデートは必ずしよう」ということを中居さん司会のバラエティ番組で、「専門家」として出演しているっぽい方が言っていた。
OSのアップデート = スマホのアップデート なのか。スマホの基本的なところはOSによって動いているからそれでいいのか。専門家らしき方が少し苦笑いしながら言っていたので、スタッフ(制作?)との打ち合わせで、「う~んOSって何?ってなりそうだから、簡単にスマホのアップデート、って言ってもらっていいですか?」みたいなやりとりがあったのかな、と妄想してしまった。というか、そういう言葉とか単語に対する軽視の隙を詐欺は突いてくるんじゃないか、とも思う。
野木亜紀子さん脚本のMIU404はめちゃくちゃ面白い。アンナチュラルでも逃げ恥でもコタキでも(カルテットでも)、食べ物を食べることがちゃんと描かれるだけでちゃんと登場人物が「生きてる」感じがして安心する(そこがメインではないけど)。陣馬さんが窓からうどん湯切りして仮事務所追い出された後、引っ越し後もちゃんとキッチンでうどん作り続けてるの、慈しみの気持ちが沸いてくる。
愚痴2。
朝、時計をみるためと、人の声を耳に入れて多少目を覚ますためにNHKのあさイチをつけている。少しずつスタジオにゲストも呼ぶようになってきている。で、そこでゲストに対してされる「自粛期間中は何をして過ごしていましたか?」という質問。
「自粛期間」、、、、せめて「緊急事態宣言中」と言ってほしい。前回から書くことに困ると辞書を引用してしまっているけれど、「自粛」をGoogle検索した結果は
《名・ス自》
自分から進んで、行いや態度を改めて、つつしむこと。「報道を―する」(Oxford Languagesの定義)
Google翻訳で英語にすると「Self-restraint」、それをまたひっくり返して英→日にすると「自制」。自分を制すること、は、そのための期間を要請されなくても、公(社会?)に関わる行動をする際にはなされるべきことじゃないのか。
「自粛期間は何をされていましたか?」という質問は、「みんなで自粛、してましたよね?私はしていましたよ、自粛。あなたも当然していましたよね?」という暗黙の確認(かなり被害妄想的ではあるけど)に聞こえてしまう。実質的に緊急事態宣言 ≒ それまでより強めの自粛要請 でしかなかったので、間違ってはいないかもしれない。だとしても、「自粛期間は~~」って語り続けることは見聞きしていてかなり不健全だなと思う。
「言葉 ≠ 伝わる」
GRAPEVINE - 大人(NOBODY NOBODY) (Official Live Video)
劉 慈欣 作「三体」にハマった。Ⅰ巻は紙の本で買って、1週間くらいで読んでしまった。続きが早く読みたい。けど単行本を置いておく場所なんてもうないから深夜テンションも相まってKindle Paperwhiteを買ってしまった。読みやすいし、紙で買った本を読み終わった後、所持し続けるか、売るか、あげるか、捨てるか、というようなことを考えなくてよくなったので、よい買い物になった。
少し前、2か月前くらいに読んでいたら面白さに興奮はしつつも、もっと本気で気持ちが落ち込んでいただろうな、と思う。NetflixでLA92を観たときと同じくらい落ち込んだので、逆に?いえばそれくらい(現実を録画した映像と比べても遜色ないくらい、あるいはそれ以上に)フィクションの中の登場人物がしっかりと生きているように感じた。
Ⅱの上巻、序盤で「三体人にとって思考 = コミュニケートだ。だからなにかを隠す、うそをつく、といった地球人の思考≠コミュニケーションだからこそできる行為が理解できないし、怖い」という設定が開示される。三体世界の実質的に生きるのが困難な環境に適応した結果そのように進化したのか。というか「思考=コミュニケーション」は「思考≠コミュニケーション」より進んでる、ということになるんだろうか。
そう進化することが三体世界に「文化」がない要因なら、進化なんてしない方がいいな。
ROTH BART BARONからドラムの中原さんが抜けて、実質三船さんのソロプロジェクトになった。新体制の配信ライブが脱退発表から1週間後に行われて、めちゃくちゃよかった。よかったけど、春の嵐とか、skiffle songとかの、ここぞとばかりに怒涛のように叩く目の覚めるようなドライブ感はやっぱり無くて、寂しさはある。慣れていくんだろうけど、chef cooks meのニーチェさん、KIRINJIのコトリさんのことを考えてると「君がいないことが、君がいることだな」的喪失感に苛まれてしまう。
せめてパーシモンホールまでは、というわけにはいかなかったんだろうな。脱退、とかが必然的に節目になってしまうバンドって形態はやっぱり不健全なのかもしれない。
2020/6/19
仕事の山場的なものをこの週の半ばで一旦超えた、というのと、給付金申請のために免許の住所書き換え、という理由をつけて午後休をとる。
弱めに雨が降っている。警察署に行く途中、大須の栗りんにスピードワゴン井戸田さんがたぶん情報番組の取材で、ちょうど食べ歩きモンブランを食すところに遭遇する。「おいしいーー!」の声がでかい。東京⇆名古屋の往復新幹線代使ってそのでかいリアクションを撮る、録る(中継だったかもしれんけど)。その時も金曜昼間だけど多少行列ができていた。テレビに出たらまた人が増える。すると、「街にもどる活気、コロナ対策は?」みたいな枠つくって、「専門家」に電話して、「気をつけんとねーー」ってやるんでしょう(実際昼間〜夕方の情報番組は月一土曜通院の待合くらいでしか観ないので、そこからの勝手な妄想だけれど)
警察署に行くと、3〜40代くらいの黒人男性2人が入り口付近の椅子に座り、その周りに立った3人の警官に何か訊かれている。内容は聞こえなかったので、彼らが警察署で何か問われることをしたのかどうかはわからない。免許書き換えは昼休憩にでもできたんじゃないかと思うくらいあっさり、5〜10分ほどで済んだ。警察署出るときには黒人男性2人と警官はいなくなっていた。
家に帰ってNetflixで「きみの鳥はうたえる」をみる。長回しのシーンが多く、でもたぶん台詞は全部書いてある言葉で、演じる仕事も、演じさせる、というか演じる環境をつくる仕事もやっぱすごい。リアルにオールナイトでイベントやって撮ったんじゃないかっていうOMSBがライブしてるクラブのシーンと、シズオが盗んだフラワースタンドからひまわりを抜いて生けてるシーンが好きだった。「生ける」って字面で久々にみた気がする。勝手に引っこ抜いて一回半殺してるのに「生ける」って、残酷だとも思う。
「花を生ける」とGoogle翻訳に突っ込んだら「Flower arrangement」が返ってきた。英→日訳で「live flower」は「生花」だけど、日→英にひっくり返すと「Flower arrangement」。こういう言葉の表現に関しては宗教観とか、スピリチュアル感があるけど、それらが「そういうもの」って感じで扱われる、避けられてるのはやっばオウム真理教トラウマなんだろうか。
夜、名駅の東側で久々に大学の友達と呑む。席の間隔あける、とかそういうのはまったくない感じでいつも通りに戻ってる。それがいいとも悪いとも思わないけど。ceroの髙城さんが少し前に、「元に戻り始めた飲食店を外からみてると、そういうインスタレーションに見えてくる」とツイートしていた。この2ヶ月まったく稼げなかった分、なのかいつもの倍以上いるようにみえるキャッチのお兄さん達が忙しなく声かけ、電話かけをしていた。彼らはたしかほとんどマスクをしていなかった気がする。自分もつけていなかったけれど。
話した内容はあんまり覚えていない。状況みてボルダリングと栗りん行く日をつくろうってことになった。